その後、朱印船貿易はどうなったの?

 江戸幕府は当初、貿易の振興(しんこう)をはかり、中国(明)や朝鮮、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスなどの国々とさかんに貿易をおこなった。ところが、朱印船貿易は3代将軍家光のときに停止される(1635年)。
  ところで、江戸幕府がキリスト教を禁止したことは知っているね?貿易が盛んになると、多くのキリスト教宣教師が来日し、信者の数も増えた。キリスト教禁止を徹底するために、朱印船貿易を禁止する必要があったのだ。また、西国の大名たちが、朱印船貿易で大きな利益をあげて経済力を増していたことも、幕府にとっては問題だった。そのため諸大名による貿易は禁止され(一部例外もあるものの)貿易は幕府が独占することととなった。外国船の来航も、中国・オランダ・朝鮮・琉球(りゅうきゅう)に限定されたのだ。

※ 江戸幕府がとった極端な海外交流の制限を現在では「鎖国」と呼んでいますが、この言葉を使うようになっ
  たのは19世紀になってから。1801年に長崎の通訳:志筑忠雄がドイツ人ケンペルの著者「日本誌」を訳すと
  きに、最初に使ったのだそうです。

江戸時代を探る!

・朱印船貿易のその後

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出島や唐人屋敷について詳しく教えて!

  鎖国と言っても、完全に外国との交流が止まったわけではない。外国との交流は、「4つの窓」などと呼ばれる外交ルートを通じて行われていたのだ。
 これら「4つの窓」からは、中国や東南アジア、ヨーロッパなどの情報がもたらされた。幕末のペリー来航も、オランダ経由で1年前に予告されていたという話もある。江戸幕府は鎖国下においても海外の情報収集は続けていたのだ。

江戸幕府が265年間も続いた
 のはなぜだろう
 
江戸時代を探るキーワード
  有力者を滅ぼす 
  幕府の仕組みの工夫 
  大名の統制 
  身分制度の確立 
  貿易の統制と独占 その1 
  貿易の統制と独占 その2
  貿易の統制と独占 その3
  幕府の豊かな財源
  交通網の整備 
  広大な直轄領 
  キリスト教対策 

  幕府は、長崎に長崎奉行をおき、直接支配した。オランダ人は出島に住むことを強制され、許可なく出島の外に出ることはできなかった。
  出島は人工の島で、総面積は約15,000平方メートル。その中に、オランダ商館が置かれ、カピタン(オランダ商館長のこと)はじめ多くのオランダ人たちが住んでいた。カピタンが江戸幕府に提出する「オランダ風説書(ふうせつがき)は、海外の様子について書かれたもので、江戸幕府にとって貴重な情報源だったのだ。
  中国人については、江戸時代の初めごろまでは、長崎の町の中に日本人と同じように住んでいたようだ。ところが、幕府による貿易統制が厳しくなると、密貿易をする中国人も増えてきた。そこで、幕府は中国人の密貿易を監視するために、中国人を一ヶ所に集めて住まわせた(1688年)。これが唐人屋敷だ。監視の目は、出島ほどは厳しくなかったと言われるぞ。

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貿易の統制と独占 その2

あ、それは鎖国のことだね!