静岡県の歴史上の人物

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 もとは九州・唐津藩6万石の当主でしたが、出世を望んだ水野忠邦は、徳川家康にあやかって、みずから浜松城主になりました。浜松城は、石高では唐津藩と同等か、それ以下でしたが、「出世城」などとも呼ばれ、歴代の城主が幕府の要職に出世することが多かったのです。     
    【水野忠邦の一生】
1794年 肥前唐津(現:佐賀県唐津市)に生まれる
1817年 浜松城の城主となる
1839年 幕府老中となる
1841年 天保の改革に着手
1843年 改革の失敗で失脚
1844年 再び老中となる
1845年 病気を理由に老中を辞職
天保の改革中の政治責任を問われ隠居・謹慎(きんしん)を命じられ、山形へ移される。
1851年 死去
 
 江戸幕府の三大政治改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)の一つ。
 倹約(けんやく)令(風俗をとりしまる)や人返し令(出稼(でかせ)ぎ農民を村に帰す)を出したり、株仲間の解散(物価安定策)するなどの政策を行いました。
 あまりにきびしい内容のため、大名や旗本の反感をまねき、また、人々の評判も悪く、忠邦は失脚しました

答えは……水野忠邦 です

天保の改革 1841〜1843

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