江戸時代を探る!

石田三成(いしだみつなり)    1560〜1600

  近江(おうみ)(現:滋賀県)に生まれる。秀吉が近江長浜城主になったころに、秀吉の家臣となった。九州征伐(せいばつ)時の兵員物資の輸送や太閤(たいこう)検地の実施など、軍事面よりもむしろ経済面で才能をあらわした。 1591年には近江北部を与えられ、佐和山城を居城とした。
  文禄(ぶんろく)慶長(けいちょう)の役においても船奉行となり兵員物資の輸送を手際(てぎわ)良くこなしたが、加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)ら最前線で戦っていた武将らと対立し、秀吉の死後は、政権を追われた。
 秀吉亡き後の豊臣政権内部では、家康の勢力が増大していた。三成は、豊臣氏の支配を維持するために家康を討つことを画策し、 1600年に反徳川勢力を集めて挙兵した。両軍は関ヶ原(せきがはら)(現:岐阜県関ヶ原町)に布陣し、半日にもおよぶ大合戦となった(関ヶ原の戦い)。兵力や布陣の状況から、西軍(三成方)が優勢だったが、三成は自軍の大名たちをまとめきれず、戦法に乱れが生じ、優勢な状況を生かせなかったといわれる。最終的には、徳川方と通じていた小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りにあい、敗北した。
 戦場から逃走し山中に(かく)れた三成だったが間もなくとらえられ、京都の三条河原(さんじょうがわら)にて処刑された。

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