江戸時代を探る!

豊臣秀吉(とよとみひでよし)    1537 ?〜1598

  若いころの名は、木下藤吉郎(とうきちろう)。後に、羽柴(はしば)秀吉、豊臣秀吉と名を変える。尾張(おわり)(現:愛知県西部)の貧しい足軽の子どもに生まれ、その才能を織田信長に見いだされて出世したといわれるが、詳しいことは分かっていない。
  秀吉が重要な仕事を任されるようになったのは、信長が足利義昭(よしあき)を奉じて京都に入った時だ(1568年)。このとき秀吉は、京都周辺の行政を任されている。その後、近江長浜城主となり、このころから羽柴姓を名乗るようになったといわれる。1582年、毛利(もうり)氏を討つために中国地方へ遠征中、本能寺の変が起こった。秀吉は、備中高松城(現:岡山市)を攻めていたが、事件の連絡を受けると、ただちに毛利氏と和睦(わぼく)し、軍を京都に向かわせ、山崎の戦いで明智光秀(あけちみつひで)()った。このとき、数万もの軍勢を、わずか数日間(一説には5日間ほど)で、岡山から京都まで(約200q)移動させたといわれ、これを「中国大返し」と呼び、秀吉の伝説の一つとなっている。
  秀吉は、信長死後の清洲(きよす)会議(織田家の重臣の会議)にて、三法師(信長の孫)の後見役として主導権を握った。その後、秀吉と対立する柴田勝家(しばたかついえ)を、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(1583年)に破り、信長の後継者としての地位を確立した。さらにこの年、秀吉は、大坂城を築いて本拠地としている。
  小牧(こまき)長久手(ながくて)の戦い(1584年)の後、(たく)みな外交交渉で徳川家康を配下とし、1585年には四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏を、1587年には九州の島津氏を下し、西国一帯を支配下においた。1590年には、北条氏を滅ぼし、奥州(現:東北地方)の伊達(だて)氏も配下に加わったため、ここに天下統一が完成した。
  秀吉は、全国で検地(太閤(たいこう)検地)を行い、税収を確保し、また、刀狩を行い、兵農分離を進め、社会の秩序の安定に努めた。また、朝廷との関係を重視した。1585年は関白に就任し、さらに自らの養女を天皇の女御(にょうご)(皇后にあたる)にするなどして、天皇の外戚(がいせき)(皇后の親族)の地位を得た。秀吉は、朝廷や天皇といった昔からの権威を背景に、他の戦国大名よりも優位に立とうとした。
  その後、中国大陸進出をもくろみ、1592年〜98年にかけて朝鮮半島に出兵(文禄(ぶんろく)慶長(けいちょう)の役)したが、思うような戦果は上げられなかった。朝鮮半島に出兵した大名らの不満は高まり、豊臣政権内部の対立も激しくなった。 朝鮮出兵が行われている最中に、秀吉は伏見城にて死去した(1598年)。

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