信玄とは出家後の名前で、もとは武田晴信。甲斐(現:山梨県)を本拠とした戦国大名。戦略・戦術に優れた戦国大名として知られ、武田の騎馬隊は戦国最強と言われた。
信玄は信濃(現:長野県)へ侵攻したため、越後(現:新潟県)の上杉謙信と対立した。信玄と謙信とは、川中島(現:長野市)で激突した(川中島の戦い)。12年間に5回の戦があったと言われるが、ついに勝敗は決することなく終わった。この間、信玄は信濃の支配を固め、飛騨(現:岐阜県)や上野(現:群馬県)にも兵を進めるなど、全体としては武田が優勢であった。
信玄は外交面でも優れていた。謙信との戦いに備えるために、1554年には敵対していた相模(現:神奈川県)の北条氏康、駿河(現:静岡県)の今川義元と、三国同盟をむすんだ。その後、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、今川との同盟を捨てて駿河にも攻め込んだ。一方、急速に勢力を拡大していた織田信長に対しては、近江(現:滋賀県)の浅井長政や越前(現:福井県)の朝倉義景らと同盟を結んで、信長を包囲した。
1572年、上洛(京へのぼること)の軍を率いて遠江(現:静岡県西部)へ侵攻し、三方原の戦いで徳川・織田の連合軍を破ったが、翌年、陣中で病をわずらい、甲斐にもどる途中に病死した。
勇猛な武将としてのイメージが強い信玄だが、法の整備、領地内の検地、鉱山開発など領国経営を積極的に行い、優秀な政治家でもあった。中でも、釜無川の治水工事は有名で、信玄が築いたとされる堤防は”信玄堤”と呼ばれ、今でも山梨県甲斐市に残っている。また、和歌の名手でもあったと言われる。